屋久島縦走3日目、鹿之沢小屋で迎える朝は雨の朝だった。前日の天気予報で覚悟はしていたけれど、せめて出発するまでは持ちこたえて欲しかった。
他の2組は今日は停滞するらしく、外が明るくなってきてもシュラフにくるまったままである。
一方、私たちは、どんなに天気が悪くなっても、今日中には何とかして淀川小屋までたどり着かなければならない。翌日の朝8時に淀川登山口まで迎えに来てくれるようにタクシーを予約してあるのだ。
トムラウシの遭難事故は無理してツアーを強行したことが大きな原因だったが、ギリギリの日程で予定を組んでいると、小屋に停滞するという選択は簡単にはできないこと良くわかる。
天気が悪いと準備にも気合が入らず、やっと出発準備が整った時は7時20分になっていた。
最初の計画では朝6時には小屋を出ることになっていたのに、最初から大幅に遅れてしまう。
停滞組の見送りを受けて、雨の中を歩き始めた。
昨日降りてきたばかりの永田岳の荒れた登山道を再び登り返す。
屋久島縦走の計画を立てている時、このルートだけがどうしても気に入らなかった。
新高塚小屋から一気に淀川登山口まで歩くのが一般的なルートだが、山の中で3泊はしたかったので、無理に鹿之沢小屋泊を組み込んだのである。
そうすると、今回の縦走ルート中で最も急で厳しい永田岳と鹿之沢小屋の間を、よりによって往復することになってしまう。
前日に永田岳に登頂した後、同じ道を引き返してどこかにテントを張れれば楽な行程を組めるのだけれど、屋久島では山小屋以外でのテント設営が禁止されているので、他に選択肢が無かったのである。
永田岳の登り下りにストックは邪魔にしかならないことを、昨日で思い知らされていた。
今日はそのストックはザックに縛り付けたまま、両手をフルに使い、荒れて急な登山道を登っていく。
岩や木の枝を掴みながら体を引き上げ、何も手がかりが無いところでは、登山道沿いの笹をわしづかみにして登る。
屋久島の笹はヤクザサと言って、北海道の笹よりはかなり小振りで掴みやすい。
登るにしたがって風が強く吹き付けてくる。
雨脚がそれ程強くないのでまだ助かった。
頂上近くになると、身体が吹き飛ばされるくらいの強風となり、これに雨が加われば一昨日以上の悲惨な状態になっているところだ。
昨日65分かけて下ったところを、今日は70分で登ることができた。
しかし、まだ安心もしていられない。
これからまた、急な登山道を下って、次に屋久島で一番高い宮之浦岳に登らなければならないのだ。
昨日歩いたばかりの道なので、周りの風景も気にせず、足元だけを見ながら黙々と下っていく。
ただ、見ようしたところで周りの風景など全て霧の中である。
9時25分、焼野三叉に到着。
ザックを降ろして休憩する。
朝食におかゆを食べただけで約2時間休みなく歩いてきたおかげで、完全にエネルギー切れ状態になっていた。
こんな時のためにエネルギー補給用のゼリーなどを持参していたのだが、何故か見当たらない。
代わりにSOYJOYを口にするが、これではカロリー的に心許ない。
縦走中の食事は全て、フリーズドライの山食か棒ラーメンだけ。3食合わせても、せいぜい1000kcal程度。一般的な成人の摂取カロリー2000kcalの半分である。
これで重たい荷物を背負って急峻な登山道を上り下りしなければならないのだ。
身体に脂肪の蓄えの無い私は直ぐにシャリバテになってしまうので、これはちょっとショックだった。
宮之浦岳方向から単独の男性が下ってきた。
淀川小屋から歩き始めたそうで、ここまで3時間くらいかかったとのこと。その時間を聞いて少し元気が出たが、彼と私達とでは脚力が全然違いそうである。
3時間を鵜呑みにすることはできない。
宮之浦岳を目指して登り始める。
その山頂が最高到達点になるので、そこさえ超えてしまえば理論的には淀川小屋まで下っていくだけである。現実はそう甘くはないと分かっていても、気分的にはかなり楽になるはずだ。
体力が続かないので、少し登っては立ち止まって息を整え、また少し登る。まるで無酸素でエベレストを目指している登山者の様である。
でも、少しずつでも足を動かしていれば、いずれは山頂にたどり着ける。
次第に雨も強くなってきた。まるで一昨日の再現である。
目の前に巨大な大岩が現れる。
それを回り込むように進んでいくと、その先で登山道は笹に覆われて消えかけていた。これまで歩いてきた登山道と比べると明らかに道が細すぎるので、それは違うルートであることに気が付く。
慌てて戻ると、かみさんが反対方向に道らしきものがあるのを見つけた。岩場の上で道が分かりづらく、風雨を避けて下ばかり見て歩いているので、それを見落としてしまったらしい。
天気が悪くて、その上に道を間違えてとなると、典型的な遭難パターンである。
そこから直ぐが宮之浦岳の山頂だった。
霧に包まれて何も見えない山頂では男性が一人、三脚を立てて撮影していた。
ここでの被写体は山頂標識くらいしか無さそうだ。
私たちに気が付いた男性は、山に入ってから初めて人に会ったと笑っていた。
昨日は石塚小屋に泊まって、そこでも一人だったらしい。
話を聞くと私たちの1日後に屋久島入りしたそうである。
鹿児島からの飛行機が飛ばず、高速船に乗って屋久島入りしたとのこと。
宮之浦に泊まる予定が高速船は安房の港に入るので、到着時間も遅く止む無く安房で宿を探したらしい。
その日は私たちが雨の中をずぶ濡れになって歩いていた日である。
屋久島旅行はこれがあるから怖い。
旅行の計画を立てる時には、一応こんな事態も想定して、鹿児島でビジネスホテルに泊まることや、彼と同じく高速船を使って屋久島入りして、安房から宮之浦の宿までタクシーで移動するとか、代替え手段を色々と考えていたのだ。
初日に雨に降られたことを呪うより、予定通り屋久島に付けたことに感謝した方が良かったみたいだ。
男性に別れを告げて宮之浦岳を下る。
登っている時は山の風下になるので大丈夫だったが、下りでは正面からまともに強風が吹き付けてくる。
アドバイスを受けてスパッツは雨具の下に装着しておいたのに、それでもやっぱり靴の中に水が入ってきていた。
かみさんも同じ状態である。
勿論、雨具の下の衣類もびしょ濡れだ。
ただし二人とも、雨具の下はfinetrackのレイヤードシステムで身を固めていたのでいくらかは助かっていた。
フラッドラッシュメッシュスキンにより肌はドライに保たれ、2ndレイヤーのメリノスピンが汗を素早く吸汗拡散してくれる。
しかし、雨が降り続けているため、最後のゴアテックスの雨具の透湿性が全く機能を発揮せず、雨具の内側がびっしりと結露することになってしまう。
霧の中から突然、巨大な岩が姿を現した。
その後も、荒れた登山道を下っていくと、変わった形の岩が霧の中に浮かび上がる。
このルートでは様々な奇岩を楽しめるところなのに、霧のため視界は数十メートルしかなく、登山道から近くにあるものしか見ることができない
まあそのことは、鹿之沢小屋を出た時から覚悟はしていた。
それよりも今日の目的はただ一つ、無事に淀川小屋までたどり着くことだけである。
景色のことなど二の次だった。
次に現れた巨大な岩の前には「くりお岳」と書かれた看板が立っていた。
どうやらここは一つの山の山頂らしいが、周りは何も見えず、自分がどこに立っているのかも理解できない。
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