振り返れば山が見える


 知っている人は少ないと思いますが、北海道のカントリースタイルを伝える「East Side」(年2回発行)という雑誌が北海道の小さな(?)会社から発行されています。
 この雑誌の中に、私の好きな風景というコーナーがあり、毎号、北海道に関わりのある方が交代で執筆しているのですが 、ちょっと前に発行された5号に私の書いたものが載っています。
 知り合いの編集部の方から何か書いてみませんかと誘われ、調子にのって書いたのは良いのですが如何せん拙い文章なもので、その後修正に次ぐ修正を受け、結局本に載ったときは最初に書いた原型はほとんど残っていないという有様でした。(^_^;
 というわけで、ここでは修正を受ける前の最初に書いた文書を載せてみることにしました。(以下その内容です)

 子供の頃、僕が住んでいた家からは日高山脈の山並みが一望に見渡せた。その中で、たまたま山が重なり合って、頂上が三つに見える部分があった。僕には四つ年上の優しい姉がいたが、ある日彼女はその山を指差し「ヒデノリ、あれが富士山だよ」とまだ幼かった僕に教えてくれたのである。
  当時僕が読んでいた本の挿し絵では、富士山以外の山は3000m級の山であっても富士山の10分の1くらいの高さにに描かれていた。その本も本だが、姉も姉である。疑う心を持たない幼い僕はそれをすっかり信じてしまった。
 それ以来、「富士山は日本一高い山だって本に書いてあるのに、何となく隣の山の方が高そうに見えるんだけど・・・」、ちょっとした疑問を感じながらも、富士山の、いや日高山脈の懐に抱かれて少年時代を過ごしていた。

 僕が子供の頃、昭和30年代は、自然が沢山残された良い時代だったと思われるかも知れないが、実は川が一番汚染されていた頃なのである。
  住んでいた町は小さいながらも、雪印の牛乳工場や日甜の製糖工場が操業しており、今とは比べものにならないくらい活気に溢れていた。自然保護などという意識もなく、工場の廃液など全てそのまま川に流されていた。
  家の裏の小川も、雪印の工場が洗浄水を流す時間帯には、川の色が真っ白に染まるほどだった。牛や鶏の死骸もそのまま川に捨てられ、当時飼っていた犬がよく川から牛の大きな頭蓋骨を拾ってきて、美味しそうにしゃぶっていたものである。
  それでも、家の周りにはわき水が流れ出す小川がいくつも流れており、スズランやエゾカンゾウが咲き乱れる野原も残されていた。そんな環境の中で一日中遊び回り、畑の中の道を1人家に帰る少年のバックには、常に日高山脈の雄大な姿が広がっていた。

 そんな少年時代を過ごし、札幌に出てきてからもう20年以上たってしまった。
  今住んでいる家からは、手稲山が直ぐ近くに見える。見えると言っても、今の窓からの景色は、隣の家の屋根越しに山頂部分がちょっと顔を出している程度のものである。たとえそれだけでも、外に出てちょっと歩けばいつでも手稲山の姿を仰ぎ見ることができる。
  都会に住んでいても、山が近くにあるという事実だけで何となく安心感を得られるのだ。街中の雑踏を歩いていても、ビルの陰から見える山の姿にホッとする一瞬がある。僕にとっての山の見える風景とは癒しの風景なのである。

 子供の頃遊んでいた川で、川がカーブしていてどうしてもその先まで歩いては行けない場所があった。あの先はどんな風になっているのだろう。川の流れていく先に広がる世界を無性に知りたかった思い出がある。
  その望みは、大人になってからカヌーを始める事でかなえられた。水の流れに乗って川を下っていくと、これまでは未知のベールに包まれていたカーブの先の世界が、次々と目の前に現れてくるのだ。おとぎの国の冒険者にでもなったような気分である。でも実際は、川下り初心者の僕にとって、カーブを曲がるたびにその先の倒木や岩に怯え、とても景色なんか眺める余裕もない。冒険者と言うよりも流れにのみ込まれた哀れな子羊と言った方が合っている。
  同じ理由で、山を見ると無性に登ってみたくなるといった子供時代を過ごした人は、大人になってから山登りを始めて、子供の頃の思いを達成するのだろう。私の場合、山を見ても、そこの頂上に登ってみたい、などという気持ちは一度も感じたことが無かった。そもそも、家から見える日高の山々はとても歩いていけるような距離ではない。山というものは遠くから眺めるだけの存在だった。
  大人になってから、キャンプやカヌーなどのアウトドアレジャーを楽しむようになったが、不思議と山登りに興味を感じない無いのは、そんな理由からなのかも知れない。

 キャンプやドライブで道内をあちこちと走り回る中で、妙な懐かしさとちょっとだけのやるせなさを感じさせてくる風景に出会うことがある。その風景とは、畑の広がる平野から眺めた羊蹄山やニセコの山並み、大雪山連峰の姿だったりする。甘酸っぱい子供の頃の思い出と二度と取り戻せないこれまでの時間が、そんな風景にだぶって心にしみ入って来るのだ。
  最近はこのような山の見える風景以外にも、北海道の何処の風景を見ても、何かしら昔の色々な出来事が思い出され、センチメンタルな気持ちになってしまう。どうも年をとってくると、素直に目の前の光景に感動出来なくなってきたようだ。どこか、これまでの記憶には無いような新しい風景に出会って、新鮮な感動を味わってみたい気がする。たとえば、本物の富士山の姿とか。

 

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