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GWのテーマは廃

あかんランド丹頂の里(5月3日〜4日)

昨年、HTBで放送されていた壇蜜古画という番組で、「消えた街 雄別」として雄別炭山が取り上げられていた。
この番組は、壇蜜が例の口調で北海道に残っている廃墟の紹介をするのだけれど、廃墟の美しさと儚さを素直に伝えるその内容は秀逸で、廃墟好きの私にとってはたまらないものだった。
これを見た時から今年のGWの予定は「雄別探訪」で決まっていたのである。

第6茶路川橋梁そして、GW後半4連休の最初にその予定を組み込んだ。
道東道の浦幌ICで高速を降りて、国道392号で白糠を目指す。
この道を走る時は旧白糠線の橋梁群などを見るのが楽しみの一つでもある。

過去に2回ほどこの道を走って鉄橋の写真などを写していたが、旧上茶路駅の跡だけは見つけられずに終わっていた。
今回こそは絶対に見つけてやろうと、「鉄道廃線後を歩く(北海道・東北編)」を参考にしてGPSに大体の位置を記録させ現地にやってきたが、それでも場所を特定できない。

しばらくウロウロしていたら、国道から脇道に入ったところで藪の中に錆の浮いた鉄骨製の上屋が建っているのを発見。
車から降りて見に行くと、線路もそのまま残っていて、それが上茶路駅であることは間違いなさそうだ。

上茶路駅を発見枕木の上を歩いて駅跡へと向かうが、棘の生えた低木が密生していて行く手を遮る。
良く見るとその低木は全てタラノキだった。残念ながらその芽は、収穫するにはまだ小さ過ぎたが、後十日も経てば最高のタランボ畑に変わっていそうである。

プラットフォームには上茶路駅の看板が、一部は壊れかけているものの、そのまま残っていた。
上屋の支柱には、プラットフォームを突き破って伸びてきたツタが絡みついている。
本では人力トロッコも残されているようなことが書いてあったが、今は其の車輪が一対、残っているだけだった。
足で蹴るとゴロゴロと音を立てて線路の上を転がっていく。
赤錆びに覆われた信号機や分電盤など、全てが良い味を出している。

上茶路駅のプラットホーム駅舎の跡が公園化されて残されている所もあるが、ここのように自然の力に晒されて次第に跡型を消していく様子を見られる方が私は好きなのである。
上茶路駅は正にそんな鉄道遺構だった。
十年後には更に朽ち果てて、その存在も忘れ去られていくのだろうが、そこに廃墟としての魅力があるのだと思う。

夏には草木が茂って、今よりも近づくのは難しくなりそうだ。
廃墟巡りは今時期か晩秋頃が一番適している。
それもあって、これから向かう雄別探訪をGWの予定に組み込んだのである。

しかし、難点も一つある。
満足しながら車に戻ってきて、ふと自分の下半身に目をやると、そこでは数匹のダニが蠢いていたのである。

 
  信号
トロッコの車輪だけが残っている   信号機も良い味を出していた

白糠の道の駅で酪恵舎のチーズと株式会社ジビエのエゾシカ肉を仕入れる。
これで今夜のキャンプの夕食はとても豪華になりそうだ。

ラーメン真澄阿寒町を過ぎて布伏内の集落までやって来ると、急に廃屋が目立ち始める。
この集落も多分、雄別炭山と関連した炭住として栄えていたのだろう。
今日の昼食は、この布伏内のラーメン屋で食べることにしていた。
かみさんが「本当にこんなところにラーメン屋さんがあるの?」と怪訝そうな顔をしている。
私も同じ気持ちだったが、目的としているラーメン店「真澄」は、食べログでは高い評価となっているのである。

真澄は布伏内集落の外れの方にある、素っ気ない外観の店だった。
裏の駐車場らしき場所に車を停めると、その向かいには廃墟と化したアパート風の建物が建っている。
正に限界集落を地で行く様な土地だ。

真澄の塩ラーメン 店内での、店主とお客さんとの会話も「かみさんが家を出て行ったけど、娘はこちらに残った云々」などと、これまた土地の雰囲気に合わせたようなもので、隣で聞いている私達を独特の世界に引き込んでくれる。

肝心のラーメンの方も、塩ラーメンが四つのタイプの塩から選べて、見た目も味も札幌のラーメン屋ともまともに勝負できるレベルのものだった。

腹ごしらえをして、いよいよ主目的の雄別探訪である。
最初に目についた、落書きだらけのガソリンスタンドの廃屋はパス。
事前にネットで調べた時、廃墟への落書きの多いことが気になっていた。
廃墟好きの人間が廃墟に落書きすることなどは絶対にあり得ないので、ここには別の目的を持った人間が集まってきているのだろう。

インターネットで雄別について検索すると、心霊スポット関係のページが沢山ヒットしてくる。
ここに集まる人間とは、その心霊スポット目当てにやって来る人間のことである。
建物への落書きも、そんな奴らが残したものかもしれない。

雄別炭礦のデパート廃墟次に目についたのが大きなコンクリート製の建物だった。
これが壇蜜古画でも紹介されていた購買会(今で言うデパート)の廃墟である。
炭鉱の最盛期には従業員や家族を含めて一万五千人がここで暮らしていたという。
その街の中心部にあったこのデパートは多分、多くの買い物客で賑わっていたのだろう。

ランとした建物の中を歩いていると、当時の賑わいが頭の中に蘇ってくるような気がした。

ここの壁にも落書きがあったが、その落書きを上から消したような跡も残っていた。
もしかしたら誰かが、今でもこの廃墟を守ろうとしているのかもしれない。


デパート廃墟内部   デパート廃墟内部
大きな開口部がデパートの正面玄関か?   ここには商品が一杯並んでいたはず

デパート屋上へ続く階段建物裏の階段から屋上に登ってみた。
コンクリートの隙間に樹木が根をおろして育ち始めている。
人工構造物としての面目をまだ保っているが、そのうちに自然の力に負かされる時がやって来る。
その頃には廃屋としての魅力が今以上に高まっていることだろう。

映画館の周辺は一般住宅の基礎と思われるものが半分草に埋もれて広がっている。
こんな場所を歩く時は、隠れた便槽に落ちないように注意しなければならない。
コンクリートは年を経るとともに劣化していくが、陶器はそれがない。
枯れ草の中で陶製の小便器だけが、新品の輝きを放っていた。


廃墟   廃墟?
これは風呂桶だったのだろうか?   やたら綺麗だけど・・・

雄別炭鉱集合煙突その周辺の探索を終えて車道を更に奥に進むと、巨大な煙突が現れた。
これが雄別炭山のシンボルでもあった集合煙突である。

車から降りてその写真を撮っていると、後ろから1台の車がやってきて、助手席から女性が降りてきた。
「こちらで暮らしていたことがあるのですか?」
多分、その女性はここで暮らしていて、GWを利用して故郷の様子を見に来たのだろう。
そんな方を前にすると、興味本位で見学しに来ている自分たちが恥ずかしくなってしまう。

道路を更に奥まで進み、煉瓦製の眼鏡橋などを見てからUターンして同じ道を戻る。
そして最後に、壇密古画でも取り上げられていた炭礦病院の廃墟を見に行く。
この病院は、先日亡くなられた作家の渡辺淳一が勤めていた病院でもあるのだ。
それらしい建物が林の奥に見えていたので、道路際に車を停めてそこまで歩くことにした。
雄別炭礦病院私ほど廃墟好きでもないかみさんは、そろそろ飽きてきた様子なので、私一人で向かう。

本当は、この病院廃墟を見に行くことは、あまり気が進まなかった。
と言うのも、このような病院はそこで亡くなられた方も沢山いるはずである。
ましてや、炭鉱の病院ともなれば尚更だ。

廃墟好きの私としても、病院の廃墟だけは遠慮したい。
外観だけ見て引き揚げるつもりでいたら、先ほどの女性が子供を連れてその病院から出てくるのが見えた。
そういえば、道路際に停まっていた車では、その女性の夫と思われる人が所在なさそうにしていた。
おそらくその女性は、この病院にも何か思い出があってわざわざ見に来ているのだと思われる。
関係のない夫は、そんな廃墟には興味もなく、車で待っていることにした、といっ

そんな様子を見て、私も病院の中に入る勇気が湧いてきた。
ここも相変わらず落書きだらけだが、建物自体はまだ十分にその機能を保っていそうだ。
円形廊下窓は全て無くなっていたが、そのおかげで建物の中は思ったよりも明るい。
ここの建物の一番の見どころでもある3階へ続く螺旋状のスロープは、正面玄関から入ったすぐ先にあった。
そのままスロープを登ってみる。
スロープ外周の窓枠の外には、まだ芽吹いていない裸のの木々が枝を伸ばしている。
ズラリと並んだ病室の窓も見える。
建築的にもこのスロープの美しさは秀逸なものに違いない。

3階まで上がると、そこから延びた廊下の先には病室がずらりと並んでいた。
さすがにそこまで足を踏み入れる勇気はなく、ここまでで病院廃墟の探索は終わりにした。


雄別炭礦病院   雄別炭礦病院
病室の窓   この奥には足を踏み入れられなかった

車まで戻って来ると、かみさんがいつの間にかアイヌネギを収穫して、ニコニコと機嫌良さそうにしていた。
これで今日の夕食はエゾシカのヒレ肉ステーキの横にアイヌネギも添えられることとなったのである。

喫茶店かくれんぼ喉が渇いたので、途中で見かけたカフェで一休みすることにした。
美味しいラーメン屋もそうだが、こんな場所にこんな店があるの?と驚かされる。
集落の中には「なーんもないからぼーっと哲学 布伏内歩こうMAP」と書かれた手作り風の地図もあったりして、限界集落とは言ってみたけれど、その中では新しい力も芽生えていそうな布伏内の集落である。

雄別の探索を終えて、今日のキャンプ地であるあかんランド丹頂の里へとやってきた。
中へ入っていくと駐車場には沢山の車が停まっていて、キャンプ場も大混雑なのではと心配になる。
しかし、受付では「今日は他にキャンパーはいないから、荷物を降ろした後も車は場内に停めておいても良いですよ」と言われた。
駐車場に停まっていたのは、日帰りのレジャー客の車だったのである。
確かに、テントサイトから池を挟んで反対側にある大型の遊具では、沢山の子供たちが遊んでいた。
バンガローには宿泊客もいるようだ。

テント泊は我が家だけここは北海道キャンピングガイドではファミリー向けのキャンプ場として紹介されていたが、その通りの雰囲気である。
我が家が泊るようなキャンプ場ではないけれど、この周辺でオープンしているのはここしかなかったので、贅沢は言ってられないのだ。

嬉しかったのは、キャンプ場内に雄別炭山の資料館があったことである。
設営を済ませると、直ぐにその資料館へと向かった。
そこには期待していた通りに、炭鉱が繁栄していたころの写真が展示されていた。
私達が歩いてきた雑草で覆われた土地には、隙間もないくらいに建物が建ち並んでいたのだ。
デパート、集合煙突、炭礦病院の建物も直ぐに分かった。

先にここを見て、イメージを膨らませてから現地に向かうか、先に現地を見て、そこで抱いたイメージとの違いをここで確認するか。
どちらが良いかは、見る人の感性次第だろう。


SLに乗って   人形と一緒に
SLも展示されている   何時ものように人形と絡む

当時の街の様子
この写真を見たかった

鹿肉ステーキその後は、ビールを飲んでたき火をしてと、いつもの我が家のキャンプ風景が繰り広げられる。
いつもと少しだけ違っているのは、白糠産のエゾシカヒレ肉のステーキと雄別で採取したアイヌネギがとても美味しかったことくらいである。

フェイスブックに雄別炭山の写真をアップしたところ、知り合いの方から「そこはやばいので近付かない方が良い、最悪は連れ帰ることとなって除霊した人もいる」とのメッセージを受け取った。
霊感の鈍い私だけれど、知っている人からそんな話を聞かせると良い気持はしない。

焚き火近付かない方が良いと言われても、既に近付き過ぎた後なのである
撮った写真に変なものが写っていたらどうしようとか、もしも取り付かれたら誰に徐霊してもらえば良いのか等と、本気で考えてしまった。

これを書いている今のところは、悪霊に取り付かれた様子もなく無事に暮らしている。
悪霊に取り付かれるとしたら、肝試しで病院の建物に侵入し、そこでスプレーで落書きするような奴らが真っ先に取り付かれるべきである。
私のように厳粛な気持ちで建物を見ている人間は、悪霊だって見逃してくれるはずだ。
なんて、勝手なことを考えている私なのである。

翌朝のキャンプ場は、霧に包まれていた。
夜中に少しだけ降った雨で、テントに水滴が付いている。
空気はひんやりと冷えていて、直ぐにたき火を始める。
サイト全景朝のコーヒーを飲みながら、頭上から聞こえてくる野鳥のさえずりに耳を傾ける。
ロケーション的にはパッとしないキャンプ場だけれど、こんな時間を過ごせるのだから不満は無い。

霧が晴れると上空には青空が広がっていた。
日も射してきて、場内を一回りしてくる間に濡れたテントもほぼ乾いていた。
昔はキャンプ場へのこだわりが結構強かったけれど、今の我が家のスタイルならば何処のキャンプ場に泊っても大して変わらないかもしれない。
静かな夜を過ごせて、静かにたき火が楽しめるのならば、ロケーションや環境にはこだわらないのである。

今日のこの後の予定は雌阿寒岳登山である。
さっさと撤収を済ませて、次の目的地に向かって車を走らせた。

雄別探索キャンプのアルバム 



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