再びキャンプ場に戻ってきても、灰色の雲が相変わらず低く垂れ込めたままだった。
いつの間にかキャンパーの数も増えていた。楽しそうな子供達の喚声、夏のファミリー向けキャンプ場の雰囲気である。
一番奥にテントを張ったのは大正解だった。
さて、これからの時間こそが、今回のキャンプ最大の目的としていたところである。
今日は満月。その満月が登ってくる時間と太陽が沈む時間が今日はほぼ同じなのである。
その様子をニセコアンヌプリの山頂から同時に楽しもうと言うのが、私の考えた計画だった。
週末に合わせてこんなチャンスが巡ってくるのは、シーズン中に一度あるか無いかだ
山の上に1泊できれば良いのだけれど、そのような場所も思い浮かばず、そうなるとキャンプ場から簡単に登れて、暗くなってからでも安全に下山できるところとなると、場所はここしか無かった。
平地のキャンプ場ならば、他にサロマ湖のキムアネップ岬とか雄武町の日の出岬あたりだけれど、今回は天気が悪そうなので最終的にニセコ野営場に決まったのである。
ここまできたら、多少の曇り空など関係ない。頂上に着いた瞬間、一気に霧が晴れて素晴らしい展望が広がった、何て話を山登りのブログ記事などで良く見かけるし、自分にも山の女神が微笑んでくれるかもしれない。
そんなことを考えながら準備を終えて、「さあ!」っと立ち上がった瞬間、何か冷たいものが顔に当たるのを感じたのである。
「ま、まさか・・・」
ポツリポツリと落ちてきた雨は、直ぐに、外にはいられないくらいの強さに変わってくる。
テントの中に逃げ込んだが、メッシュの窓を通しても雨が入ってくるので、出入り口を完全に閉めて、小さなテントの中で二人で呆然とするしかない。
曇り空だけで萎えかけていた気持ちが、この雨で完全に萎んでしまった。
しばらくして雨は止んだものの、これから登り始めても日没の時間までに頂上に達することは不可能である。
気持ちを切り替えて、キャンプ場に隣接する山の家の温泉に入りに行くことにした。
風呂から上がり、サイトに戻ってきて飲んだビールの美味さが、計画が中止になってしまったショックを癒してくれる。
温泉が隣接するキャンプ場はやっぱり良いものである。
アンヌプリの山頂で食べるはずだったおにぎりと息子の弁当のおかずの残り。
何処で食べても味に変わりは無いけれど、これをキャンプ場で食べているととても空しく感じるのは否めない。
食後は、新得共働学舎で今年の夏に購入したラクレットを肴にワインを飲む。
しかしこのラクレット、フライパンで溶かすと強烈な臭いがしてくる。
以前にもラクレットを食べたことはあるけれど、これ程臭くはなかったはずだ。
しかも途中で再び雨が降り出したものだから、そのままテントの中に運び込むしかなかった。
密閉されたテントの中でのラクレットを溶かす。テントに染み付いた臭いはしばらく取れそうにもない。
今日の計画は中止になったけれど、数年前から考えていたことがもう一つあった。
ニセコアンヌプリの山頂から、朝日を眺めることである。
このまま何もせずに札幌に帰るのは悔しいし、天気は今日よりも明日の方が良くなるはずだ。
急遽、新しい計画を実行に移すことにする。
今時期の朝日は5時頃には昇ってくる。
夜中の3時に起きれば、朝日が昇ってくる頃には山頂に立てるだろう。
霧が次第に濃くなり、サイトを覆ってきた。
明日に備えて午後8時には眠りにつく。
最初に目を覚ましたのは午前1時頃だった。
隣りの林の中からポツポツと水滴の落ちる音が聞こえてくる。霧雨でも降っているのかもしれない。
その音に混じって、ぼそぼそと男女の話し声も聞こえる。こんな時間まで起きているのが信じられない。
誰かが「静かにしてください!」と怒っていた。
本人達がいくら静かにしゃべっているつもりでも、しんと静まったキャンプ場では、周囲のテントの中ではかなり大きな音で響いてくるのである。
16年前にここに泊まったとき、隣りのテントの男性二人連れが明け方近くまでぼそぼそと語り続け、その声でかみさんはほとんど眠ることができず、かなり腹を立てていたことがある。
翌朝、かみさんに聞いてみると、午後11時頃に「ここは登山者も多くて朝早くから山に登る人もいるのだから、静かにしてください」と注意する男性の声で目を覚まさせられたと、やっぱり腹を立てていた。
登山者と一般のキャンパーが同居するこのようなキャンプ場では、トラブルも起きやすいのである。
かみさんの「月が出ているわよ」との声で目を覚ました。時計を見ると午前3時半である。慌てて飛び起きてテントの外に出てみると、既にその月は雲に隠れてしまっていた。
「さっきまでは星も見えてたのに」
一晩中ポツポツと雫のたれる音が聞こえていたので、霧雨は止みそうにないなと油断して寝ていたのが朝寝坊の原因である。
直ぐに準備をして出かけようとすると、暗闇の中で二つの目がキラリと光っているのが見えた。下へ降りる階段の真ん中には、食い散らかされたゴミ袋の残骸が。
受付時に、たちの悪いキツネが住み着いていると注意されているはずなのに、相変わらず無防備なキャンパーがいるようだ。
登山口の入林届けに記入する。出発時刻は3時55分。頂上までは90分ほどなので、朝日が昇る瞬間は見られないかもしれない。
ヘッドランプの灯りを頼りに登山道を歩き始める。
大きな石がゴロゴロと折り重なったような道を、足元だけを照らしながら歩くのは難しい。時々、先の方まで照らして歩くルートを確認しなければ、途中で行き詰ってしまう。
気温はそれほど高くなくても、湿度が高いので、汗が噴き出てくる。
何も食べずに登りだしたものだから、直ぐにスタミナが切れてくる。
ウィダーinゼリーエネルギーインを一つ持ってきただけで、他に簡単にエネルギーを補給できる食べ物は何も用意していない。
90分くらいで登れる山だからと甘く考えていたことを反省する。
尾根の上に出てくると強風が吹きつけてきて、あっと言う間に体温が奪われ、慌てて雨具を着込んだ。
上空の雲の切れ間から満月が顔を出したのに気が付き、カメラを取り出す。
その間にも次の雲が直ぐにかかってきて、ギリギリのタイミングでその姿を撮影することができた。
結局、私が月の姿を見られたのはこの一瞬だけであった
ヘッドランプの灯りも必要ないくらいに周囲が明るくなってきた。
周りを取り囲んでいた雲が風に吹き飛ばされ、斜面の向こうに下界の様子が僅かに見えている。
そして、山の陰の方で空が赤く染まってきているのも確認できる。
頂上まではまだ少しあるけれど、疲れた体に鞭打って、再び霧に覆われて真っ白になった風景の中を登り続けた。
そしてようやく霧の中をアンヌプリの山頂に到着。
先に登ったかみさんが「太陽が見えるわ!早く早く!」と叫んでるのを聞いて、慌てて私も山頂に駆け上がった。
下から次々と湧き上がってくる雲が薄くなった瞬間、その向こうに赤くぼんやりと光る太陽の姿を確認できた。
直ぐにまた雲に隠される太陽。
その間に山頂の東端まで歩いて、雲が晴れるのを待っていると、ついに完全な姿の太陽が下界に広がる雲海の上に姿を現したのである。
山の女神が私達に微笑んでくれたのだ。
しかしそれは一瞬の微笑だった。また直ぐに雲に飲み込まれて、その後はいくら待っても二度と姿を現すことはなかった。
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