礼文島を離れ稚内へと向かうフェリーの中、2等船室で横になってうとうとしていたところ、ふと船室の窓を見上げると、そこには青い空が広がっていた。
隣りに寝ていたはずの、かみさんの姿が見当たらない。
のそのそと起き上がってデッキに出ようとしたら、ドアのガラス窓越しにかみさんが手招きをしている。
外に出てかみさんの指差す方向を見やると、山頂に雲を被った利尻島が青い海の上に浮かんでいた。今回の旅で初めて目にする利尻島の完全な姿、そして青い海と真っ青な空。
「何で礼文島を離れた途端にこうなるんだ」とぼやきながらその島の姿を探したが、水平線を低く覆った雲に隠されて見ることができない。
きっと礼文島の空だけは、相変わらず灰色の雲に覆われているのだろう。
今日はクッチャロ湖のキャンプ場あたりで、旅の余韻に浸りながら、最後の夜を過ごすつもりでいた。
天気も良く、隣接する温泉に入った後は、サイトからの夕日も楽しめそうだ。
ところが稚内の上空には怪しい雲が流れていた。
港の背後、稚内公園の丘の上に立つ百年記念塔は、流れてくる雲にその上部を隠されてしまっている。
風も相当に強いようだ。
稚内の港に到着後、その強風に吹かれながらやや離れた駐車場まで歩く。そして4日ぶりにオデッセイと再会し、私達の徒歩旅は終了した。
これから先は何時もどおりのオートキャンパーに戻ってしまう。
何かつまらない気もするけれど、行動の自由度は大幅に広がることになる。
まずは、キャンプ地の変更。この強風を避けるためには、兜沼公園以外に泊まるところは無い。
夕食を作る気にもなれないので、何処かでコンビニ弁当を買おうと思ったけれど、それも味気ないので市内の大型ースーパーに立ち寄る。
惣菜コーナーには、思わずよだれが垂れそうな食べ物がずらりと並んでいる。それを片っ端から買い物籠の中に放り込み、今夜の夕食は豪華なバイキング料理になりそうだ。
そうして、完全に上空を覆ってしまった灰色の雲の下を、兜沼公園に向かって車を走らせた。
7月に入り、そろそろ兜沼も賑わい始めているかなと思っていたが、場内はひっそりと静まりかえっていた。
まあ、この静けさが兜沼らしいところである。
まずは受付を済ませるが、ここのキャンプ場はテント一張り単位の料金システムなので困ってしまう。
今日は、何時も使っている小川のソレアードを張るつもりでいたけれど、テントの乾燥もかねてかみさんの一人用テントも張るつもりでいたのだ。
迷った挙句、二張り分の料金1600円を払うことにした。
受付の女性は、ちょっと驚いた表情で「それならバンガローも空いてますよ・・・、あっ、きっとテントの方が良いんですよね」と一人で納得していた。
以前、雨の降る中、フウマを連れてここを訪れた時、気の毒がって「バンガローに泊まっても良いですよ、ワンちゃんも入れて良いですから」と言ってくれた方と同じ人のはずだ。
とても感じの良い女性で、彼女のおかげでこのキャンプ場の印象が更に増していることは確実である。
このキャンプ場の特等席とも言えるサイトには、既にライダーの方らしいソロテントがしっかりと張られてしまっていた。
他には、管理棟近くにテントが一張り張られているだけだ。
この特等席を先に押さえられてしまうと、その周りにはテントを張る気にはなれない。
そこだけが少し小高くなっていて、周りはなだらかに傾斜し、その下に平らなスペースがある。その下の部分にテントを張ると、まるでお城の下で暮らす城下町の町民のような気分になりそうだ。
特等席のキャンパーにしても、お城の殿様気分じゃ無いにしても、目の前の美しい風景の中にテントが張られてしまっては目障りに感じるだろう。
混んでいればそんな贅沢は言ってられないけれど、これだけ空いていれば、お互いに尊重しあいたい。
このキャンプ場には、他にもテントを張りたくなる場所は沢山あるのだ。
場内の芝生では、あちらこちらでデージーが大きな群落を作って花を咲かせていて、それも良い雰囲気をかもし出している。
先客からはこちらが見えず、こちらからも相手が目に入らず、そして目の前に花が一杯咲いているような場所を探し出して、テントを設営することにした。
設営作業を始めると巨大な蚊達が、待ってましたとばかりに一斉に群がってくる。
礼文島ではそんな虫達は全然気にならなかったのに、既に7月のキャンプであることを思い出させてくれた。私が夏のキャンプをあまり好きでない理由の一つは、この虫の多さなのである。
フレームにフライシートを被せた段階で、蟻の巣が直ぐ近くにあったり、かみさんがこちらの方が良いと言ったり、地面がジメジメしていたりと、その度にテントをズルズルと引きずって場所を変える。
ようやく最終的な場所が決まったとき、テントの中は大変な状態になっていた。
それまでの行為は、大型の虫取り網で、草の上にとまっていた虫達を一網打尽にしたようなものである。
そんなドタバタを繰り広げながら、やっと落ち着くことができた。
中に入った虫達を追い出して、テントの前室にこもってしまえば、虫の多さも全く気にならない。
クーラーボックスから冷えたビールを取り出し、それをグビッと喉に流し込む。
バックパックキャンプでの唯一の不満は、この快感を味わえなかったことである。
風は相変わらず強く吹き、周りの大木の枝先を上空で大きく揺らしているものの、森の中にまでは入って来られない。
このキャンプ場が無かったら、今日は悲惨なキャンプになるところだった。
場内を緑に染める木々たちが、とても頼もしく思えてきた。
ここでは温水シャワーを無料で使うことができる。
これは本当に嬉しい施設で、テントの設営で汗だくになることも全く気にならない。
昔はキャンパー用の風呂まで有った事が、これだけキャンパーが少なくなった今の状況からはとても想像できない。
施設だけは今でも残っているのに、このまま使わないままに終わってしまうのは何とも勿体無い気がする。
礼文島でかいた汗も全て洗い流し、さっぱりとしてテントへ戻ってきた。
今回は久しぶりにBYERの低い椅子を持ってきていた。
そして、前室部分にブルーシートを敷き詰めると、そのまま足を投げ出したり、直接座ることもできてとても快適である。
礼文島では地面に座り込むスタイルのキャンプが続いていたので、何だかこの方が落ち着ける気がする。
普段のキャンプでもこの方が良いかも知れない。
私がそう言うと、「それは良いけど、ござを持ち歩くようにだけはならないでね」とかみさんから笑われてしまった。
豪華お惣菜バイキングにワインを飲んで、リラックスした夜を過ごす。
重たい荷物を背負ったまま3日間で42キロを歩き通した影響は、程よい疲労感となって、体を包み込んでいる。
キャンプ場の明るすぎる照明は好きではないけれど、ここではそれが場内の木々をライトアップしているようで、なかなか美しい。
頭の上では轟々と風の音が鳴り響いていた。
今夜だけは、ちょっとだけ夜更かしをして、この風の音を子守唄にして眠ることにした。
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