次第にフウマが歩くのを渋りはじめた。11才を越えて老犬の部類に入り体力もかなり衰えてきてはいるが、このように歩きたがらないのには多分別の理由がだと思う。
毎朝の散歩の時でも自分の縄張りから外れた場所まで私が行こうとすると、足を踏ん張って抵抗する素振りを見せることがある。これはかみさんが散歩させる時でも、同じ状態であるとのことだ。
それなのに、休みの日などに夫婦二人で散歩に出る時は、かなり遠くの初めて歩くような場所でも平気な顔でついてくるのである。この夫婦は二人揃わなければ頼りにならないとでもフウマに思われているのだろうか。
賀老のブナ林の中も同じことで、「このオヤジ一人に付いて行って果たして大丈夫だろうか」などとフウマに思われているのかもしれない。
そんな不安そうなフウマに声をかけながら、ブナ林の美しい風景をカメラで撮影して歩く。
遊歩道沿いの野草に目をやると、手頃な大きさのウドが生えているのに気が付いてしまった。何故か腰には山菜ナイフがぶら下がっていたので、早速それを収穫する。本当は、タケノコでも生えていればついでに収穫しようと、軽い気持ちでナイフを持ってきたのだが、ウドは想定外だった。
そこから先は足元ばかりに注意がいってしまい、肝心のブナ林のことは頭から飛んでしまっていた。
カメラを2台首からぶら下げて、腰にはウドやタケノコの入ったビニール袋をぶら下げ、汗をかきながらブナ林の中を歩いていると、そのうちに頭の周りにはブヨが飛び回りはじめるし、ゆったりとした心でブナ林を観察する状態では無くなってしまった。
良い写真を沢山撮ろう、上手そうな山菜を沢山採ろう、そんながつがつした心でブナ林を歩いていたら、本当の美しさに気が付かないまま通り過ぎてしまうんじゃ無いだろうか。
ちょっと反省しながらキャンプ場へと戻ってきた。
一張りだけ張られていたテントも既に撤収されて、まだ賑わっている賀老の滝駐車場と違ってテントサイトはがらんとしていた。
どこにテントを張ろうか迷ったあげく、結局先客がテントを張っていたのと同じ場所を選んでしまった。どうしても近くに樹木がある場所に吸い寄せられるようだ。
昼に到着した時にはそれほど気にならなかったブヨ達も、いつの間にか私の周りに吸い寄せられてきたみたいだ。
相変わらず森の中からは演歌が流れてきている。雲は次第に薄くなり、雪の残る狩場山もその姿を現してきた。
新緑の景色を眺めながらくつろいでいると、旅行者らしきライダーがやってきた。
「このキャンプ場って無料なんですか?」
独りで過ごす賀老の夜というもくろみは、呆気なく崩れてしまったのである。
今日の早朝に小樽についたばかりで、これから20日間ほどかけて北海道を回る予定なのだとか。その1泊目が賀老高原とは感心してしまったが、賀老の滝見物でバテてしまい、これ以上移動する気力が無くなってしまったとのことである。
「虫の多いところですねー」とぼやく彼の青いジーンズを見ると、真っ黒になるくらいにブヨがたかっていた。
ブヨというのは濃い青が好きなのだろうか。
今回持ってきたBYERのイスはジーンズと同じような青い色をしているが、それも数百匹のブヨに占領されてしまい、とても座る気にはなれない。
私は幸い白っぽい服装だったので、ブヨに好かれることは無かったが、頭の周りを飛び回るブヨは次第に増え始めた。
賀老の滝駐車場には、何やら荷物を一杯屋根に積んだワンボックスカーが停まっている。白いヒゲを伸ばした仙人のような老人がその車の持ち主のようで、彼もここで1泊するような雰囲気だ。
今時期になると、週末を外してもキャンプ場独占というのはなかなか難しそうである。
ブヨがうるさいのでテントの中に潜り込んで一休みしていると、セミの声を子守歌にウトウトとしてしまった。
突然の大きな声で目を覚まさせられる。ワンボックスカーの仙人が隣のライダーの彼に話しかけているところだった。
「こんなところでは蚊取り線香を持ってないとダメだ」とか「駐車場の方が虫が少ないからこっちに来い」とか言っているが、如何にも仕切や風のオヤジみたいで、どうも私はこんなタイプの人間が嫌いである。
話し声が聞こえなくなった頃にテントから這い出すと、ライダーの彼は虫の多さに辟易して仙人の近くにテントを移動することにしたみたいだ。
ちょっと寂しくなるが、これでキャンプ場は私が独り占め出来ることになった。
虫除け代わりに焚き火を始めたが、その煙くらいではブヨも退散してくれない。
夕食は豚丼。レトルト御飯を暖めて豚肉をフライパンで炒めるだけの簡単メニュー。それでも、何となく独りでキャンプをしている雰囲気を味わえて楽しくなってくる。
夕食を終えると、後は焚き火の炎を眺めながらビールを飲んで、ただぼーっとするだけの贅沢な時間を過ごす。
あれほどうるさかったブヨも、暗くなると何処かへ行ってしまった。
仙人のところには別のワンボックスカーの人間がやってきて、大声で話しながら宴会をしているようだ。発電機の音も聞こえてくる。その隣にテントを移動したライダーの彼がちょっと気の毒そうに思えたが、こちらのサイトはかなり離れているのでその音もそれほど気にはならない。
焚き火でウィンナーを焼き、それをフウマと分け合って食べる。
雲が晴れて月の光が場内を照らし出す。寝るのが惜しくなるくらいの良い夜だったが、明日も早起きすることになりそうなのであまり夜更かしもしていられない。
アオバズクの鳴き声を子守歌にして眠りについた。
鳥のさえずりで目が覚める。その声を聞きながら微睡んでいると車のエンジン音も聞こえてきた。
テントを出てみると、既にタケノコ採りの車が駐車場に沢山停まっていた。ある程度は覚悟していたが、休日も平日もタケノコ採りの人達には関係ないようである。
焚き火を燃やして朝のコーヒータイムを楽しんでいると、早くも森の中から演歌が流れはじめた。日中ならまだ我慢できるが、まだ朝の5時前である。さすがに、勘弁してくれよな〜という気分だ。
朝食はガーリックトーストにベーコンエッグ。
今日は朝から気温も高めなので、あまり暑くならないうちに賀老の滝まで歩くことにする。
ライダーの彼は早くも帰り支度をしていた。
「あのオヤジの誘いにのって場所を変えたのは大失敗でした」と愚痴をこぼしている。
話しを聞くと、昨晩後からやってきたワンボックスカーの人間に対して「先に来ている人間には挨拶しろ」とか、偉そうな顔で説教していたのだとか。
本人はこのキャンプ場にしばらく居着いているみたいで、まるでここの主みたいな気分でいるみたいだ。「先輩に挨拶しろ」とは、まるで公園にたむろするホームレス社会と同じ構図である。確かにその車を見ると、キャンパーと言うよりも車に乗ったホームレスと言った方が似合っている。
そして、虫の多さと早朝からのタケノコ採りの車の騒音、せっかくの北海道一日目の賀老高原キャンプは、彼にとってはあまり良いイメージのものではなかったみたいで、ちょっと気の毒な気がした。
別れの挨拶をして、私とフウマは賀老の滝散策へと出発した。
駐車場から賀老の滝への降り口まではシラカバ林の中を抜けていく。遊歩道の直ぐ近くにラジカセが置いてあるらしく、大音量で演歌が聞こえてくる。
その全く場違いな雰囲気にフウマが驚いて、歩みを止めてしまった。声をかけて何とか歩かせたが、不安そうに辺りをキョロキョロ見回しながら、シッポを下げたまま歩くフウマが、何とも可笑しくて可哀想でもある。
やっぱり賀老の森に演歌は絶対に似合わないのだ。
賀老の滝への階段を下りる辺りでは、その音も聞こえなくなった。安心したフウマは、急な階段を先頭を切って駆け下りていく。
ここも、台風の影響で倒木が多い。道の復旧にもかなり苦労した後がうかがわれる。
倒れた木を土留め代わりに利用したり、太い倒木がそのまま休憩用のベンチに使えそうな感じで配置されているところもあった。
谷を挟んだ向かい側の山肌が、新緑に染まってとても美しい。
やがて滝の音が響いてきた。演歌に驚くフウマも、滝の音はまるで気にならないらしい。
以前は坂道を降りる途中に滝を眺める展望テラスがあったはずだが、現在は川の直ぐ近くまで直接降りられるような道が付いていた。展望テラスはそこからまた上に少し登った場所にあるが、そこまで行くと滝の水しぶきもかかり、斜めから滝を見るような感じになるので、川の横の小さな広場から見た方が賀老の滝は美しく見える。
まだ7時前なのに既に先客が一人いたのには驚いてしまった。
昨夜はユースに泊まって、狩場山に登るつもりがまだ花が咲いていないので賀老の滝を見に来たとの話しだ。彼も北海道に来たばかりで、これから北海道の山を登って回るのだそうだ。
そろそろ北海道にも観光シーズンが訪れたようである。
しばらく賀老の滝の撮影に夢中になる。
午前中は滝にかかる虹も見られると本に書いてあったが、残念ながら太陽は薄雲に隠れてしまっていた。
雨具を来て滝の近くまで行ってみたかったが、フウマが歩けそうな場所ではないので、今回は諦めることにする。いずれは、賀老の滝の直下まで行ってみたいものだ。
帰りはひたすら急な階段を上るだけだ。老犬と馬鹿にしていたフウマは、疲れも見せずに急な階段をスタスタと上っていく。
階段の途中で振り返って私が追いつくのを待っているフウマの目には、私の方が頼りなさそうに見えているのかもしれない。
テントまで戻ってきて、後かたづけを済ませてキャンプ場を後にする。
途中の千走川温泉に入り、誰もいない露天風呂に身を沈めて賀老の森の余韻に浸った。
演歌とブヨに悩まされたものの、賀老の自然は何時も私の心を安らかにしてくれるのだった。
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